昭和48年05月07日 朝の御理解



 御理解 第50節
 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」

 神様が、私共に願うておって下さる信心とは、こういう信心を言うのだと思うのです。ひとりでに物が出来るようなものぞ。願う訳でもない、それでも神様が、ちゃんとおかげを下さってある。それこそ、喜代司さんの言葉を借りると、天地は恩も着せずに、さっさとおかげを下さる。恩着せがましいことがない。当然の事を、当然の事として、淡々として、おかげは限りなく頂けてゆけれる。一人でに物ができる。問題はいつも地を肥やすと言う事に精進努力をし続けておればよいわけである。
 成程ひとりでに物が出来るそういうおかげを、金光教の教祖はお取次下さる。そういうおかげをお取次下さる時に、金光大神の喜び天地金乃神の喜び、そして氏子の喜びと言うことになると思うです。そこで私共がそこを信じそこを分からせてもらわなければならない事なんですけれども。そんならどういうふうにする事が、地が肥える事か。勿論地と言う事は、自分の心が肥える事でしょう。自分の心が豊かに肥える事です。
 昨日日曜日ですから、特別奉修委員の方達の御祈念がございました後に頂いた御理解ですけれども。御心眼に鬼の面をかぶっておる。ところがその次には、鬼の面をこうとって、狐の面をかぶっている。そんなお知らせを頂いた。勿論面を取れば普通の人間がかぶっておるわけなんです。これは信心をさせて頂く者はと言う事ではないです。これはもう人間の全ての上に、同じ事が言えるのですけれども。取分け信心させて頂く者は、ここを分かり、ここを信ずる事だと思うのです。
 ですから信心させて頂く者は、ここの所を大事にしなければいけない。私共の前にそれこそ、夜性じゃろうか、岩淵じゃろうかといった様な人があるとします。それこそ鬼のような人じゃ、蛇の様な人じゃと言う様な、俺だけではない、その人が本当に私共を苛め抜くような場合があります。けれどもそれは決して鬼でもなければ蛇でもない。ひと皮むけば、その面をとれば下は神様である。
 あの人に騙されたとか、どうもあの人の言う事はと、こう言うけれどもです。そこから、私は、例えば親鸞様の言葉を借りると、例えば法然上人に、すかされ参らせてもといったような言葉がありますね。すかされるという事は、騙されてもという事です。いうならば、人から騙されるといったような事もありますけれども、それを恨んじゃならん。いや、とりわけ、ここでは親先生から騙されたと。そこで親先生から騙されるならばです、騙されてもよいと言う事です。それを神様に騙される。
 決してそれは、狐の面をかぶっておるだけであって、その下には慈顔溢れる神様の姿があると言うのです。だからそうだと信ずる事がです、私はひとりでに物が出来るような信心の基礎、基本だと思うですね。だから騙されたたんびに地が肥えて来る。人からえげつのう言われたり、こなされたりするたんびに、地はどんどん肥えていきよる。どう言う訳で騙したかと、どう言う訳で俺をそんなにいじめるかと言うて、むきになって向こうに押し返すような事になったら、これは肥やしにはなりませんよね。
 やっぱ肥やしちゃ、昔から汚いものだと。どんなに汚いものをもって来られてもです。それを合掌して受けるというような基本姿勢というものが、まず出来てからの事です。ひとりでに物が出来るようになるのは。だからこれは、ひとりでに物が出来るようななったからと言うてです。そんならそれでもうおしまいと言う事じゃないです。例えば田地田畑を持っておってもです。矢張り毎年毎年、それに対するところの肥やしというものはして行かなければいけないでしょう。
 でなかったらひとりでに物が出来ません。いや良い実りになりません。だから私共が一生です、どう言う事があっても、それを受けぬかせて頂く。しかも段々おかげを頂いて参りますとね、その事が楽しゅうなってくるし、有難うなってくるんです。いうならお百姓さんが年々歳々、矢張り肥料を畑に田に施されるのと同じです。だからこそ良い物がひとりでに生れて来るのです。
 もういっぺん肥やしとけば、後は良かと言う事じゃないです。私共の上に一生の上に、どう言う様な問題が、どう言う様な事柄がです、中には腹の立つ事もあろう。悲しい事もあろう。その様々な全てがです、全部地を肥やす肥料であるという頂き方。これが、ひとりでに物が出来るというおかげの頂けれる基本姿勢です。それともう一つは、還元と言われております。還元の生活。天地の親神様に対する還元をして行く。それは私共の、いうなら天地に命をかけて行く。
 私共の生活をして行く上に、色々な大事な、絶対食べ物はなからなければならん。絶対お金はなからなければならない。絶対着物はなからなければならないと、言うわけです。ですから、それは私の命なんです。お金も私の命。お金はもう命よりも大事だということは決してありません。一番大事なのは命です。その命を、支えてくれておるものが、例えて言うと、お金であったり、物であったり、食べ物であったり、着物であったりという事なんです。ですからやはり命の一部なんです。
 そういう命の一部がです、天地に対して還元される。皆さんが毎朝お賽銭を奉られたり、お初穂をなさったりするのは、これは素晴らしい意味に於いての還元です。皆さんの真心という事は命なんです。そこに田地が肥えていくと言う事になるのです。と同時に只今申します、とにかく鬼の面をかぶって来ようが、狐の面をかぶって来ようが、それは狐でもなからなければ鬼でもない。それは面をかぶっておるだけなのだから、その狐の面やら、鬼の面に幻惑されてはならないと言う事です。
 あまりの辛さに、もう本当にあの人は、それこそ血も涙もない人じゃろうかと、自分が苛められておると、そういうふうな思い方をするけれども、そういう思い方じゃ駄目なんです。天地の親神様のそれは働きなんです。としてです成り行きを大事に頂いて行くというかね、御の字をつけて全てを頂いて行くとか。だからそれに徹する事なんです。所謂今日の御理解で申しますと、ひとりでに物が出来ていく様なおかげを頂く為のです、これは鉄則です。絶対のものです。
 この事だけは有難く受けるけれども、この事だけは有難く受けないと言った様な事であってはならんのです。そこにお道ではです、私共なかなか本当に受けられない、へとへとするような事がありますけれども。お取次を頂くと言う事によってです。はぁほんにそうだったと心をなでおろす事が出来たり、お取次を頂く事によってです、肥料は肥料として受けて、そしてそれを有難いものにして行けれる道があるのです。もう腹が立って腹が立って仕方がなかった。
 けれどもお取次を頂いたらスキッとした。いやスキッとどころか、お礼を申しあげるような心が、帰りには生まれてきたというなら、もう絶対あなたの心に、そういう生き方は、必ず地が肥えないはずがないです。心が愈々豊かになるのです。という程しのいうならば、厳しいようですけれども、そういう基本。とにかく信心は地を肥やせ。地を肥やして、その先にひとりでに物が出来るようなおかげを受けると言う事。
 だから心も肥やさず、地も肥やさずして頂いておるのは、ひとりでに物が出来てきよる事じゃないと言う事になるのです。極端に言うと神様に借金しよるようなおかげです。そういうおかげはどうしても恩着せられます神様の方に。これは本当です。恩着せられない事はないです。恩着せられるです。そしてそれを私共は場合によっては、お気づけと申します。恩着せござるとですあれは。お前は何時々は、神のおかげで命を頂いとろうがと。それに何ぞや。
 そう言う事ではと言うてから、叩かれたり又おかげを元に戻したりするようになるわけです。だから天地は恩を着せられないと言う事は、私共がいつも大地を肥やしておるという。これが天地は恩を、人間に着せられないと言う事です。してみると私共が、いつもお気つけを頂くのはね如何に、只自分の信心が出来ておるから頂いておるのではなくて、信心は出来ておらんけれども、願うから頼むからおかげを下さっておると言った様な事が、随分多い事じゃなかろうかと思う。
 だからそこに一つ徹する信心。私は昨日久留米の井上さんの所のご長男の、丁度亡くなられて一年になりますから、一年の式年祭をここで奉仕されました。ほんな内々の方ばっかりでしたけれども、それは大変賑やかな御霊前にも、御神前も賑やかなお祭りでした。それこそ真心一杯の式年祭でした。それがその兄弟の方達も、沢山おられるんですけれども、姉妹達が最近丁度告別式を、去年致しましたが大体アメリカに永年おられたんです。一番ご長男ですけれどもそれであちらで結婚されて。
 永い間いうならば別れ別れになっておられた。それを兄妹達みんな集まられて告別式をしたんです。所が告別式をして私共が、あちらでありましたから帰って来た。帰って来たその晩に色んな問題が、それこそヤリヤリするような問題が起きて、それ以来親子兄妹もう井上さん所に見えられないと言った様な問題が起きんです。わざわざアメリカから、御主人の御遺骨を、言葉もあんまり分かられないくらいの方でしたけれどね。
 日本語が。それこそどうして遺骨を、内地に連れて来たじゃろうかと言うて嘆かれるような問題が起きたんです。それから一年。ですから結局井上さんのお宅だけでお祭りがあったんです。一年の式年祭が。これはもう亡くなられてすぐ、お国替えをなさいますと、いわゆる送り名という、遺号ですね、送り名と言うのがが送られるわけですけれども、その人の信心の程度、程度に応じて頂くんです。それがやっぱり、半年も一年たっても頂けない人があるのです。
 それは少しでも信心がある家庭の御霊様などはですね、位が進んでおいでられる、御霊ながらも。だからある意味での位が、信心が出来られた所で頂くお名前と言う。昨日私はその事を本当に、私と神様と御霊様との、いうならば問答がとても長かったです。神様の方へ御祈念させて貰う時。それがね神様が遺号をやらんとこう仰るです。下さらんと。所が御霊様の方はですね、まあだ貰わんとこう言いなさる。私は中に立ってから、そんな訳にはいけんからどうぞと。そしたら神様からお知らせにですね。
 止めるという字を頂いた。止める。その止めるという字のね、こうしたのをこう取るとね、上という字になるでしょう。だからこっちんとばこうして取ると、上げという字になるです。だから神様としては、これを取った時に上げると仰るです。そして御霊様はどうかと言うとですね、牛の角の内側にこうした、もう見事な牛でしたけれどね、御心眼に頂くんですよ。そして牛というのは、御霊名を送る時に、いうならば大変お徳を受けられた御霊様には、必ず大人というのがつくです。
 例えば桂松平大人の御霊の神と言う様に。大人と書いてあるです。それをうしと読むのです。だから御霊様はどう言う事かというとね、もういうならば大人の位も貰うてから、改めてお名前を頂きたいという願いを持っておられる訳です。私は昨日その事を聞いて頂いて、もうそれこそ親が先立ったり、子が先立ったり思う様にならんのが浮世。是は有名な巡礼お鶴のお芝居があるでしょう。是の中のお母さんのお弓の台詞です。親が先立ったり子が先立ったり、思う様にならんのが浮世井上さんの所がそうです。
 お母さんは本当自分が先に逝った方がよかったと言うて、嘆かれましたけれどもです。所謂何十年という間、会うてもいない息子がです。お遺骨になって帰って来た。思うようにならんのが浮世。けれども信心は、思うようにならない、そこからを時点として、信心が進められて行く時に、ひとりでに出来るようなおかげと申しましょうか、思う以上のおかげという事は、それから現れてくるのです。
 御祈念中に昨日の朝、私は読みはしませんけれども、西日本新聞の朝刊にですね。三つ四つくらいの子供を捨てとるです。そして何日かしてから自責の念に耐えかねたんです、名乗って出たわけです。それで子供が恨み泣きに、父親にしがみついてから、恨み泣きをしておる所の写真が出てました。親と会うたから嬉しい。けれども自分を捨てとったという、その恨み泣きの子供を親子がこう抱き合うて、親も子も泣いておるという写真でした。丁度井上さんところの御霊様の場合はですね。
 そういう永年別れておって、御霊になってはじめて内地に帰って来て、ですから何十年の間に、親に対する所の恨み泣きのような状態である。この一年間がそう言う所に根ざしておった。私は初めて成程、昨年告別式の夜にああいう問題が起きて、ああなられたと言う事が、ようく感じられました。そして一年後にですその御霊様自体が、井上さんのあのような熱心な一家をあげての御信心ですから。今合楽で言われておる所の五つの願いに催されてですよ、取分け家庭に不和の無きが元と仰る。
 どうぞ家庭の円満を願わない者は一人もない。本当に親子兄弟もう、とにかく円満に行きたいという願いを持ちながら、同じ親子であって又は兄弟であって、もう出入りもせんくらいにです。ですから御姉妹姉さんもここへ参ってみえるのですいつも。それでも帰りがけ車に乗せて行こうち言うたっちゃ乗らんち言いなさるくらいな、実状がですねそれ以来です。その一年間を過ごさせて頂いておるうちに、井上家の信心というのが、いわば五つの願いに立って、合楽の信心というものが段々身について行く。
 御霊様にもそれが送られるところへです、本当に家庭の不和であると言う事が、こんなにもある。そこで御霊ながらにも、家庭の円満を祈り願われて、その代わりに金輪際これから先でも人を責めるような事は致しませんと言う様な修行が出来てきた。こういう修行が心を肥やすのです。だから五つの願いのどの一つでも、それに対する修行はもうみんな地を肥やす信心です。
 取分け今第二の家庭の円満を、家庭に不和の無きが元と仰る。その元を頂かせて下さいと。為には、決して人を責めるような事は致しませんという、そういう信心が地を肥やすのです。そういう五つの願いに催されて、御霊様もですこれでいきゃ、自分ももっともっと助かられるな。何々大人と言われる程のです、例えば御霊ながらも神徳を受けて力を受けて、改めてお名前は頂戴いたしますというのが、昨日の一年祭でした。神様と私と霊様とのね、三つの問答が、そう言う事だったんです本当に有難い。
 それこそ力強い、生き生きとした御霊様の、そういう信心に対する意欲を見せられる姿を拝ませて貰うてから有難いと思いました。御霊様でもです同じ事ですよ。御霊様でも根を肥やすところの力を受けたい徳を受けたい、ひとりでに物が出来るようなおかげを頂きたい。それにはここに信心を絞って、現在合楽で言われておる五つの願いを、愈々願いとして、おかげを受けたいと言う様な有様をです、そういう姿を私に見せ又は感じさせて下さった。人間は尚更の事、この世に生を受けさせて頂いておればです。
 成程思うようにならんのが浮世だと思う事がありますけれども。思うようにならんどころではない。思い以上のおかげを頂くと言う事。それこそ夢にも思わなかった様なおかげを頂くと言う事はです。神様が恩も着せずに下さるというおかげ。いうならばひとりでに物が出来るようなおかげ。それはどこまでも先ず私共がです、先程から申します鬼であろうが狐であろうが、こなされようが騙されようがです。それを合掌して受けて行くと言う、そういう姿勢をまず作って行くと言う事が。
 とりもなおさず地を肥やす事であり、心を肥やす事であり是が続けられて行く限り、もういつも天地が自由になって下さる程しのおかげがです、頂かれると言う事。ひとりでに物が出来る様なものぞと仰る。道理に合ったおかげが頂かれる訳であります。神様の願いとされるのは、ここの所のおかげが頂ける様になる事を、私共氏子に願っておられるんだ。それが金光大神のお喜びでもあるんだ。勿論私共の喜びでもあるわけですから、そういうおかげを頂きたいです。そういうおかげを頂く為の信心修行をしたいですね。
   どうぞ。